ノーベル賞受賞者が特許では負け続ける理由――CRISPR特許争い、PTABが再びブロード研究所の勝利を確認

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2026年3月、米国特許審判・控訴委員会(PTAB)がCRISPR-Cas9ゲノム編集技術をめぐる特許争いで、ブロード研究所(マサチューセッツ工科大学・ハーバード大学の共同研究機関)の優先権を改めて確認する決定を下した。IPWatchdog(2026年3月27日付)が伝えたこの最新決定は、10年以上にわたって続く歴史的な特許戦争に、またも一つの区切りを刻んだ。ノーベル化学賞を受賞した研究者が特許では敗れ続けるという逆説的な構図は、研究上の先行性と特許法上の権利取得がまったく別のルールで動いていることを、これ以上なく鮮明に示している。

10年を超えるCRISPR特許戦争の経緯

CRISPR-Cas9(クリスパー・キャスナイン)は、特定のDNA配列を精確に切断・編集できる革命的なゲノム編集ツールだ。その基本技術は、2012年にカリフォルニア大学バークレー校(UCバークレー)のジェニファー・ドゥドナ博士とエマニュエル・シャルパンティエ博士(当時、現マックス・プランク研究所)のチームがScience誌に発表した論文に起源を持つ。この業績により両者は2020年にノーベル化学賞を受賞した。科学的な「発見」という意味では、ドゥドナ博士らが先駆者であることに疑いの余地はない。

しかし、特許の世界は「誰が先に発見したか」だけでは決まらない。ここに複雑な争いの根があった。UCバークレー側(ドゥドナ博士のCVCチーム:UC Berkeley、Vienna大学、Charpentier博士)が2012年5月に仮出願(Provisional Application)を提出し、その後本出願に移行した。これに対し、ブロード研究所のフェン・チャン博士は2012年12月に仮出願を提出したが、優先審査(Expedited Examination)を請求し、2014年4月にCRISPR-Cas9の真核細胞(動植物などの核を持つ細胞)への適用に関する特許を先に取得した。

この状況が「抵触審査(Interference Proceedings)」と、その後継制度である「発明者資格決定(Derivation Proceedings)」および「当事者系レビュー(Inter Partes Review)」を経た複数ラウンドの争いへと発展した。2017年のPTAB決定ではブロード研究所が勝利し、2022年のCAFC(連邦巡回控訴裁判所)判決でもその判断が維持された。そして今回2026年の決定でも、PTABはブロード研究所側の主張を認める判断を下した。

PTABが再確認した「優先権」の根拠とは

今回のPTAB決定の核心は「CVCチームは真核細胞系でのCRISPR-Cas9の実用化を完全に示せていなかった」という判断だ。これを理解するには、米国特許法における「実施可能要件(Enablement Requirement)」と「書面記載要件(Written Description Requirement)」の概念が鍵となる。

米国特許法は(旧来のファースト・トゥ・インベント制度、現在のAIA移行後も核心は共通する部分がある)、出願時の明細書が当業者(その技術分野の専門家)にとって発明を実施可能な程度の開示を含んでいることを要求する。ドゥドナ博士らの2012年の画期的な論文はin vitro(試験管内)のRNA分子を用いた編集システムを報告していたが、実際に生きた真核細胞(人間や動物の細胞のような、核を持つ複雑な細胞)の中でシステムを機能させることは、別途の技術的課題だった。

真核細胞内では、DNAがヒストンというタンパク質に巻き付いてクロマチン構造を形成している。細菌(原核生物)を対象としたシステムをそのまま真核細胞に持ち込んでも、核膜の障壁やクロマチン構造の問題があり、そのままでは効率よく機能しなかった。フェン・チャン博士のブロード研究所チームは、真核細胞内でCRISPR-Cas9を効率的に機能させるための具体的な技術的工夫(コドン最適化、核移行シグナルの付加など)を開発し、その実施例を出願明細書に詳細に記載した。

PTABが繰り返し確認してきたのは、「CVCの出願は細菌等での実施例は記載されているが、真核細胞系での具体的な実施例および当業者がそれを再現するための十分な開示が出願時点では欠けていた、あるいは不十分だった」という点だ。一方、ブロード研究所の出願は真核細胞系での動作実績と詳細な手順を含んでいた。ここに、科学的発見の先行性と特許法上の記載充足性の乖離が生じた。

今回の2026年の決定でPTABが扱ったのは、CVCチームが新たな証拠や法的理論に基づいて提起した再審理的な申立てに対するものとされている。CVCチームは「ブロード研究所の発明者がCVC側の情報を参照・派生させた(Derivation)」という主張や、優先日の再解釈を試みたが、PTABはこれらの主張を認めなかった。「CVCチームは真核細胞系での実用化を自らの出願で完全に裏付けていなかった」という判断は変わらず、ブロード研究所の優先権が再確認された。

「研究の先行性」と「特許実施可能要件」の乖離という知財の本質

この事件が多くの研究者・企業法務担当者に突きつける根本的な問いは、「なぜ先に発見した人が特許で負けるのか」だ。

特許制度は本来、発明の公開の対価として独占権を付与することで、技術の進歩と情報の普及を促すインセンティブ設計に基づいている。そのため「先に発明した」「先に論文発表した」だけでは不十分で、特許出願の明細書に「誰もが追試・実施できる程度の詳細な開示」が含まれているかが問われる。科学論文は新発見を他の研究者に伝え追試を促すために書かれるが、特許明細書は「発明の実施を可能にする開示」という異なる機能を持つ文書だ。

ドゥドナ博士らの科学的貢献は疑いようがない。しかし、in vitroの基本システムを真核細胞に「どうやって実際に機能させるか」という技術的ステップを、出願明細書の中で他者が再現可能な形で詳細に記述したのはブロード研究所だった。この点が、10年以上の法的争いを通じて一貫した判断軸となってきた。

現実問題として、研究者が世界トップの科学誌に論文を掲載するプレッシャーと、特許出願の詳細な実施例作成は時間的・リソース的に競合する。論文発表を優先した結果、特許出願の準備が後手に回り、「発見者」と「特許権者」が別の人になるというパターンは学術研究機関の特許管理において繰り返し起きている。CRISPR特許争いはこの問題を世界規模で可視化した事例であり、それゆえ知財法の教科書的な事例として長く語り継がれることになる。

また、ここには2013年以前の米国における「ファースト・トゥ・インベント(先発明主義)」と、AIA(America Invents Act)施行後の「ファースト・インベンター・トゥ・ファイル(先出願主義)」の移行期という制度的複雑さも絡んでいた。本争いの核心となる出願は移行期をまたいでいるため、どちらの基準が適用されるかという問題も手続きを複雑にした。

バイオ・ゲノム編集産業への影響と商業権の行方

CRISPR特許は単なる学術的権利争いではなく、莫大な商業価値を持つ産業財産権の争いだ。ゲノム編集技術は農業(作物改良)、医療(遺伝子治療、難治性疾患)、工業(微生物を用いたバイオ生産)など、複数の巨大市場にまたがる基盤技術だ。

ブロード研究所が優先権を持つ特許群は主に真核細胞系の適用をカバーしており、これが医療・農業分野での商業利用に直結する。ブロード研究所はEditas Medicine(上場バイオテク)など複数社にライセンスを供与している。一方、CVCチームの特許はin vitroおよび原核細胞系での利用についてより強い立場を持ち、Caribou Biosciences、Intellia Therapeuticsなどがその技術に基づいている。

今回の決定が商業的に意味を持つのは、複数の遺伝子治療薬・ゲノム編集ベースの農業製品が規制承認を受けつつある段階で、ライセンスコストや実施権の有効性が企業戦略に直結するからだ。PTABがブロード研究所の優先権を再確認したことで、Broad側のライセンスポジションはさらに強化される。ただし、米国外(欧州特許庁、日本特許庁、中国など)での特許争いは別途進行中であり、グローバルな権利関係は引き続き複雑だ。欧州ではCVCチームが比較的有利な立場にあるとされており、地域によって権利保有者が異なるという状況が続いている。

日本市場での実務的な影響としては、ゲノム編集技術を活用した農業・医療分野のビジネスを展開する企業が、米国特許のライセンス状況を慎重に精査する必要があることだ。米国の特許権者(Broad側かCVC側か)から誰がライセンスを受けているかによって、自社製品が誰の権利を侵害しうるかが変わる。また、日本国内の対応特許についても、同様の争いの行方を注視することが重要だ。

ノーベル賞と特許権――科学と法律の評価軸は異なる

この争いが浮き彫りにする最も本質的な問いの一つは「科学的貢献の評価と、特許権の有無は別の話だ」という当然のことを、社会がどこまで理解しているかだ。ノーベル賞は「科学的発見・発明の学術的重要性と独創性」を評価する。特許権は「出願明細書が法定要件を満たしているか」「先に権利化したのは誰か」を問う法的制度だ。評価軸がまったく異なる以上、「ノーベル賞受賞者が特許で負ける」という状況は論理的に起こりうる。

しかし、この「論理的に起こりうる」ことが社会・研究コミュニティに与える影響は無視できない。若手研究者や大学発スタートアップが、「すごい発見をしても特許戦争で負ける可能性がある」と認識することで、知的財産への投資を早期から戦略的に行う重要性が高まっている。一方で、特許競争が科学的協力より秘密主義を促進するという懸念も正当だ。

実務的な教訓は明確だ。大学・研究機関にとって、「論文発表のタイミングと特許出願のタイミングを戦略的に管理すること」「明細書には実施例を可能な限り具体的・詳細に記載すること」「真核細胞・動物モデルなど、実用的な適用系での実施例を出願時から含めること」の三点が、CRISPR事例から学べる最大の教訓だ。どれだけ革命的な発見でも、明細書の書き方と出願タイミングが権利範囲を決定的に左右する、という特許法の現実を、この10年を超える争いは示し続けている。

さらに、今回の争いが示す重要な視点として「特許の戦略的分割・継続出願」の重要性がある。ブロード研究所は優先審査制度を活用して真核細胞特許を早期に成立させた後、継続出願(Continuation Application)や分割出願を重ねることで、CRISPR-Cas9の応用範囲全体をカバーするポートフォリオを積み上げてきた。これはバイオ系の特許戦略の教科書的な成功例であり、単一の特許で守ろうとするのではなく、技術の発展形態に合わせて継続的に権利を積み重ねていく「特許の森」戦略が奏功したと言える。日本の大学・研究機関や研究開発型スタートアップが米国でのバイオ特許取得を目指す場合、こうした継続出願戦略を早期から意識した出願計画を設計することが、将来の権利行使力を大きく左右することをCRISPR事件は教えている。

最後に、この争いが「終わった」わけではないことを強調しておきたい。欧州・日本・中国など主要国での平行した審査・審判手続きは今も続いており、特に欧州特許庁での展開はBroad有利とは言えない局面もある。グローバルな技術商業化を目指す企業にとって、「どの国でどちらの特許権者からライセンスを取得すべきか」という問いへの答えは、市場ごとに異なる。CRISPR特許戦争はまだ、その最終章を迎えていない。この点を認識した上で、関連技術を扱う企業・研究機関は国際的な権利状況の継続的なモニタリングを怠らないことが重要だ。

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