日本の知的財産高等裁判所(以下、知財高裁)は2026年4月、ブロード研究所(Broad Institute)、マサチューセッツ工科大学(MIT)およびハーバード大学が日本で保有するCRISPR-Cas9関連特許について、特許庁(JPO)が2025年4月に下した無効審決を取り消す判断を示した。争点は優先権の根拠となる米国仮出願における権利移転の正当性であり、知財高裁はブロード研究所側が当該優先権を適法に主張できると認めた。
事件の経緯
本件の発端は、韓国のバイオテクノロジー企業ToolGenによる特許無効審判の申し立てである。ToolGenはブロード研究所が日本で保有するCRISPR関連特許について、その優先権の根拠となる米国仮出願(provisional application)の権利移転が適正に行われていなかったとして無効を求めた。特許庁はこの主張を認め、2025年4月に当該特許を無効とする審決を下した。
これを不服としたブロード研究所側は知財高裁に審決取消訴訟(特許法第181条)を提起した。2026年4月、知財高裁はブロード研究所の主張を認めて特許庁の審決を覆した。本稿執筆時点では判決文の全文は公開されていないが、裁判所はブロード研究所が優先権を適法に主張できると結論づけた。
CRISPR特許紛争の世界的な文脈
CRISPR(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)は細菌の免疫機構に由来するゲノム編集技術であり、特定の遺伝子配列を精密に切断・改変することができる。2012年にジェニファー・ダウドナ(カリフォルニア大学バークレー校、以下CVC連合)とエマニュエル・シャルパンティエが試験管内での動作原理を論文発表し、2020年ノーベル化学賞受賞につながった。
一方、ブロード研究所のフェン・チャン(張鋒)研究室は2013年に真核生物(eukaryote)——動植物やヒトの細胞——への初のCRISPR適用を報告した。「どちらが先に生きた細胞でCRISPRを機能させたか」という優先権の帰属をめぐって、世界各国で激しい特許紛争が展開されてきた。
米国では、特許審判部(PTAB)が2022年の干渉審判でブロード研究所の優先権を認め、連邦巡回区控訴裁判所(CAFC)も2024年にこれを支持した。2026年3月にはPTABが補充優先権陳述書の審理を経ても引き続きブロード研究所の優先権を維持する決定を下している。欧州では状況が異なり、CVC連合側が優位に立つ局面もある。
優先権と権利移転をめぐる論点
本件の核心は、特許権者が優先権(パリ条約に基づく)を主張するためには、その根拠となる先行出願(本件では米国仮出願)の権利が適法に移転していなければならないという要件にある。ToolGenは、ブロード研究所が仮出願した時点では、その権利がMIT・ハーバード大学・ホワイトヘッド研究所など複数機関に分属しており、適切に統合・移転されていなかったと主張した。
知財高裁がこの主張を退けた具体的な法的論拠は判決文の公開を待つ必要があるが、一般に、仮出願の権利移転は明示的な書面による譲渡契約が必ずしも求められるわけではなく、雇用契約や職務発明規程によって自動的に機関帰属が認められる場合がある。裁判所はブロード研究所側の権利帰属が実質的に成立していたと判断した可能性が高い。
産業への影響
CRISPR技術は現在、遺伝性疾患の治療薬(鎌状赤血球症を対象としたCasgevy等は2023〜2024年に米国・英国・日本で承認)から農業バイオテクノロジー、工業用酵素生産まで、広範な産業で実用化が進んでいる。ライセンス市場のポテンシャルは数十億ドル規模に及ぶとされ、各国での特許権の帰属はライセンス条件や事業展開に直接影響する。
今回の知財高裁判決により、日本市場においてブロード研究所のCRISPR特許の有効性が確認された。製薬・農業・工業用バイオ分野でCRISPR技術のライセンスを検討する日本企業・研究機関にとって、ライセンス交渉の相手方を再確認する必要が生じる可能性がある。
今後の展開
ToolGenが最高裁判所に上告するかどうかは現時点では不明である。日本の最高裁判所は法令解釈の問題に絞って審理するため、優先権の権利移転という事実認定の問題については上告が認められない可能性もある。
また、CRISPR特許紛争は本件のみにとどまらない。ブロード研究所・CVC連合・ToolGenは世界各国で複数の出願・訴訟を並行して進めており、国ごとに異なる判断が示されている状況が続いている。このような断片化した特許地図が技術のグローバルな普及とライセンス効率化の障害になるとの指摘も多く、CRISPR特許プールの設立を求める声が産業界から上がっているのはこうした背景による。知財高裁の本判決は、グローバルなCRISPR特許紛争においてブロード研究所が日本市場でも法的地位を維持したことを意味し、同研究所のアジア展開戦略上も重要な成果といえる。
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パテント探偵社 編集部
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